この記事は約 4 分で読めます
- 投稿
- ミスターポーゴ
![【訃報】ミスター・ポーゴさん安らかに](http://backdrop.pw/wp-content/uploads/2017/04/ミスターポーゴ2.png)
先日、あるサイトのスポーツニュースを見ていると、
ミスター・ポーゴこと関口哲夫さんが
死去したというニュースを目にしました。
一時代を築いたレスラーの死去は大変寂しいです。
デスマッチの帝王とも言われ、
あの大仁田との抗争は熱い物がありました。
今回は偲んでという訳ではないですが、
ミスター・ポーゴの軌跡を振り返ってみたいと思います。
スポンサードリンク
ミスター・ポーゴとは
ミスター・ポーゴは1951年2月5日に
群馬県で県議員の息子として生まれました。
良くポーゴ評としてリングの上での絶対的なヒールとして君臨する、
デスマッチの帝王の顔とは別に、プライベートでは
律義で温和な性格であったと言う事は出所も関係あるでしょう。
さて、大きく時を動かして恵まれた体格を活かして相撲を始めるも
プロレスに目覚めて新日本プロレスに入団します。
ちょうど旗揚げ時の新日という事もあり藤波とのデビュー戦を迎えるも
一年ちょっとで山本小鉄との確執があったようで
退団し、その後、単身渡米します。
ここから凄いのですが“ミスター・セキ”として活動するのですが、
その時のメンツがフレアーやファンクス更に
ミスター・プロレスハーリー・レイスとも対戦し、
金網デスマッチで戦っているのは一重に努力の賜物です。
その後ミスター・ポーゴと改名
(プロモーターの間違いだったそうですが)し、
海外を主戦場に戦い、国際プロレスに凱旋帰国し、
更に新日本にも参戦します。
(ケンドー・ナガサキとのコンビは有名)
その後、FMWに参戦大仁田・ターザン後藤との抗争を経て
松永と共にW★NGに参戦後はFMWに戻ったり、
IWAジャパン、大日本プロレスとフリーとして転戦していました。
その後は地元密着型プロレスWWSプロレスを立ち上げたりもしていましたが、
焼き鳥屋などのフードビジネスに熱心に取り組んでいる一方、
プロレスにはスポット参戦という形で出ていました。
そして、2017年6月23日に66歳で群馬県の病院で亡くなりました。
ミスター・ポーゴとデスマッチ
さて、ポーゴはヒールらしいヒールとも言える選手でした。
しかし、新日凱旋の時のポーゴは持ち味を発揮できないでいました。
まあちょうど一緒にいたナガサキのインパクトが強すぎたのもありますが。
ですので、不完全燃焼のまま新日参戦が終わった後の
FMWでのターンは正直期待していなかったのですが、
大仁田の引き出しというか、ポーゴとの抗争は
見事ツボに入った感じで水を得た魚でしたね。
ただ今回調べていて分かったのですが、
ハーリー・レイスにピン勝ちして更に
金網デスマッチをしているとは凄すぎます。
これってもっと評価されていい事ではと思います。
さて、FMWでは新日でのうっぷんを晴らすような活躍で暴れまわりました。
大仁田との幾度なく行われたデスマッチの数々は
やはりポーゴだったから出来たのではと思います。
また、鎌を持ち込み火炎噴射など思い切った攻撃は
まさしくヒールそのものです。
試合の様子を見ても“いい味出しています”
鎌や有刺鉄線バット・ノコギリなど何でもアリです。
これは新日では無理でしょう。FMWに行って正解です。
一度ベビーターンもありましたが、イマイチでしたね。
やはり会場全体を敵に回す形が彼には合ってますね。
(タイガー・ジェットシンもそうでしたが)
FMWでは大仁田・ターザン後藤という好敵手に恵まれ力を発揮して、
W★NG・大日本プロレスでは若手の成長を見守るという形で
トップを張るという彼の懐の深さは素晴らしい。
日本ではこんな“極悪大王”とまで呼ばれるヒールって
出てこないのではと思うほどのヒールっぷりってプロだなと思います。
FMWを最高潮に盛り上げたヒール、ミスター・ポーゴ
突然の訃報に驚き書いてみましたが、ポーゴがいた頃のFMWが
一番盛り上がっての出はと思っています。
その後は結構大仁田共々迷走中ですよね。
それだけポーゴの存在って凄いし、プロレスに徹していましたよね。
その後のいい人伝説も何となく納得ですが。
あのジプシー・ジョーとも金網デスマッチもやってますし、
FMWの里に有刺鉄線バットで殴っていますが、
ボーゴだったらありでしょう。
もうこんなヒールレスラー出てこないのでしょうね。寂しいです。
楽しませて頂き有難うございます。
ミスターポーゴ、安らかに。。。
スポンサードリンク